「みみずのたはこと」
徳富蘆花の「みみずのたはこと」が面白い。
大分以前に読み始めて興味深かったのだが、その後店の倒産、夫の交通事故、夫の大腸がん手術、母の交通事故、などが相次いで、読書に没頭できる状態になかった。
現在、蘆花によって描かれている地域内に住み、周辺を散歩するようになって、100年前のこの周辺の姿が目に見えるようで、以前に増して面白く感じる。
蘆花の筆力は、さすがに明治の文豪だと思う。
蘆花恒春園に行ってみてから「みみずのたはこと」を読み返すと、蘆花はこの辺りは武蔵野の外れで、真の武蔵野は「彼の家から近くて一里強北に当たって居る中央東線の鉄路を踏を踏み切って更に北上せねばな らぬ.」と書いている。
この数日の間に、たまたま調布野草園と烏山寺町と2度、中央高速道付近まで散歩に行ったので、尚更興味深い。
濾過が描いた100年前の蘆花恒春園周辺を図にしたPDFも見つけて、とても参考になった。
・http://www.nankyudai.ac.jp/library/pdf/43b_3.pdf
それによると、現在、蘆花夫妻のお墓のある雑木林は、隣の墓地共に当時からあって、蘆花の宅地には含まれていなかったらしい。
旧宅南側は、100年前には浅い横長の谷で、葦が茂りヨシキリがさえずる小流れがあったという。
谷の向こうが小高い丘の斜面で、雑木林や畑越しに廻沢(千歳台)の集落が見えたそうだ。
現在、蘆花公園の南側出口の外、環八と交差して東西に伸びている道路は、昔「滝坂道」と呼ばれ、青山道から分岐して世田谷を横切り、つつじヶ丘1丁目で甲州街道と合していたという。
先日野草園の帰りに、甲州街道のつつじヶ丘1丁目辺りで、斜めに分かれている道が気になったが、あれが「滝坂道」の名残りかも知れない、などと思う。
次に蘆花恒春園へ行った時には、八幡宮へ参詣して北の甲州街道へ向かう小道にあったという「別れの一本杉」の風景を想像したいものだ。
それにしても、たまたま徳富蘆花の住まいだったことで、古い時代の姿を現在に伝えているように見える蘆花恒春園でさえ、その周辺の風景は100年前とは大きく変わっているらしい。
かろうじて寺や神社だけが、名も場所も現在まで保っているようだ。
蘆花のような著名人にしてそうなのだから、増して無名の庶民の生活した村里は、どれ程変化したことか・・・
たった100年前のことを知るのも難しいほど、世の移り変わりは激しい。